信長が金沢を作った

天正11(1583)年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。

キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導をを仰いだと伝えられています。


当時、キリシタン大名であった高山右近は、前田利家に招かれ26年間金沢に住んでいました。その影響か、前田家三代利常までの前田家家臣のほとんどがキリシタンになったと言われています。日本で初めてのクリスマスを祝ったのは金沢だという記録も残っています。

九谷焼の始まりは、古九谷(こくたに)です。大坂の陣の恩賞に古九谷の大鉢を前田家三代利常が家臣に配ったとされています。隠れキリシタンの洗礼盤として使われた古九谷、随所にキリシタンマークが隠されています。

当九谷巴は、約400年前隠れキリシタンの寺院であったと古地図に記されています。


信長、秀吉、家康が金沢を創った!?

今の金沢城は、前田利家が入城後、難攻不落の城造りの名人、キリシタン大名だった盟友高山右近に設計を任せ築かれました。

戦国時代金沢は、一向宗の門徒による支配でしたその時の現在の金沢城にあったのが尾山御坊、当時織田信長が一向宗の兵を鎮圧するために柴田勝家を金沢に向かわせ尾山御坊を攻め落としました。

その後、秀吉の命を受け、前田利家が金沢に入城し、信長の四女永姫が前田家二代当主利長の正室として金沢城に迎えられました。

信長、秀吉亡き後、五大老として家康と共に天下泰平の世の中創りに励んでいた前田利家、徳川家康とは切っても切れない縁がありました。前田家三代当主前田利常の正室として、家康の内孫珠姫が金沢城へと迎えいれらます。その三男前田利治が霊峰白山の麓の九谷村で焼き物を作り始めました。


少し話を戻しますが、信長は何によって治めようとしたのでしょうか? 国を治めるためには必ず精神の拠り所が必要です。

信長の天下布武の精神を引き継いた秀吉、秀吉から金沢を任された前田利家、前田利家が金沢に招いた高山右近、彼らに共通するものが一つあります。それは茶道です。

千利休が確立させた侘び茶、それはただ狭い空間でお茶を点てて一緒に飲むといったものではありません。その精神の根底にあったのが禅でした。主人と客人が一体となりさらに全体と一体となる。

禅の精神をもとに金沢の街づくりが始まり、織田信長から前田利家、高山右近、前田利長(正室織田信長4女永姫)、前田利常(正室徳川家康孫珠姫)へと受け継がれ、伝統工芸、伝統芸能として具現化されていったのです。